主イエスを信じてバプテスマを受けると、聖書の約束通りに聖霊が注がれ、私の中に宿り、私たちを守り導き成長させてくださいます。神はキリストによって
『肉』の支配から私たちを開放し、聖霊が心の王座についてくださいました。しかし『肉』はまだ残っており、絶えず私に戦いをいどんできます。外から何かが
やって来て私を悩まし苦しめるのではなく、私の中にある肉の思いが私を苦しめ、疑問を抱かせ、信仰を捨てるように、教会から離れるように、神に目を向けな
いようにそそのかしてきます。
ローマ8章では、全体が自分の中に「肉と霊」の自覚を持つことの大切さを教えています。「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う。」「肉の
思いは死であるが、霊の思いは命と平安である。」「肉にある者は、神に敵対し、神を喜ばせることが出来ない。」と次々と肉と霊について述べられています。
その中でパウロははっきりと言っている「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きま
す。」
私たちの信仰生活はこの肉の思いに勝利すること、でも自力では勝利できなにのです。パウロが「わたしは、自分の内には、つまりわたしの内には、善が住ん
でいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望むことは行わず、望まない悪を行ってい
る」(ローマ7:18−19)と告白した。この嘆きは霊に生きているから体験するのです。主イエスが聖霊となって自分の中に宿り、霊の命が与えられてくる
と、肉の働きがしっかりと見えてくる、そのことが大切なのです。
「肉と霊が対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(ガラテヤ5:17)とある。そして「霊の導きに従って歩
みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ5:16)。霊に生きる人は、何をしたか、どれだけ有能か、どれ
だけ立派か、どれだけ完全かではなく、どれだけ神と親密な関係にあるか、どれだけ繋がっているかという事なのです。