私たちは本能的に肉(自己中心)の考えで生きようとします。私たちが霊的成長を望まず、何もしなかったら、クリスチャンと言えども肉的な考えで生きるよう
になってしまいます。それは自分の満足のために神を見上げ、自分の人生を豊かにすることには喜びを感じ、自分の必要、自分の興味、自分の祝福、自分の関心
ごとだけに喜びを感じてしまう。これが霊的幼児という状態です。
霊的幼児は、神のため、教会のため、宣教のためとなると、まったく興味がなくなってしまい、喜びより苦痛を覚えてしまう。霊的幼子の信仰は常に「私」が
中心で、神の為に自分を用いて頂くのではなく、自分のために神を利用しようとする。そのつもりではなくても、結果的にそうなってしまうのです。
また、霊的成長は自動的には起こるものではありません。クリスチャンとして年数を重ねたら誰でも成長できるわけでもありません。常に十字架の愛の中にと
どまり、御言葉に生きる、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたは本当にわたしの弟子である」(ヨハネ8:31)。とあるように、それを意識しなが
ら主イエスのように考え、主イエスのように行動する。そこに成長があり、弟子として相応しい者になっていく。
でも、それは自己中心に生きたいと思う自分自身との戦いでもあります。痛みも覚えます。嫌なこともあります。傷つくこともあります。でも、その戦いを避けていたら、いつまでも、オシメもおしゃぶりも卒業できない霊的幼児のままで生きるようになってしまいます。
パウロは言った。「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた」(13:
11)。それはキリストの愛にとどまり御言葉に生きることを決断した。パウロは弟子として主イエス様のように考え、行動したとき、そこに本当の自由と解放
があった。私たちも幼子から成熟したクリスチャンになろう。キリストの弟子になり、与えられた使命を果たそう。そして神様に用いて頂くために準備をしよ
う。