パウロは宣教旅行の途中でアテネという町に寄りました。当時のアテネは芸術や学問、特に哲学を中心として発展していた。人々は力と知恵を結集し文明を発達
させてきたのです。アテネの人々は整えられた環境と快適さの中で暮らしていた。パウロがそんなアテネの町に入ったとき憤りを覚えた。それは偶像の多さと、
そこに住む人々の霊の渇きでした。
それは快適な暮らしとは裏腹に、心の奥底に常に不安を抱えている事です。生活の中に格差がありました、差別もありました。同じ人間なのに奴隷がいまし
た。力のある人間が弱いものをコントロールしていました。知恵を尽くしても解決できない世の矛盾がありました。そんな彼らの不安が、霊的渇きとして神々の
偶像を作り出していた。これだけの知識と力をもって快適な暮らしをしているアテネの人々が、こんなにも霊的な渇きを持っているのか。どうしても今の日本と
重なってしまいます。
そこで、パウロは今まで(フィリピ、テサロニケ、ベレア)とは違う語り方をします。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方で
あることを、わたしは認めます」(22)。偶像礼拝をしている人たちに対してずいぶん丁寧です。私たちの知っているパウロはこんな偶像はすぐにやめろと言
う方です。しかし、パウロは聖霊に導かれて語りました。
アテネの人々はパウロの語る神のことを真剣に聞いていました。ところが「死者の復活」に話が及ぶと「ある者はあざ笑い、ある者は、これについては、いず
れまた聞かせてもらうことにしよう」(32)と言った。パウロは主イエスこそ救い主です。と話すことも出来ずにその場を立ち去った。・
これでアテネでの伝道は失敗したかのように見えた。無駄に終わったかのように思えた。しかし、パウロの話を聞いて「彼について行って信仰に入った者も、
何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディニシオという婦人やその他の人もいた」(38)と最後に記されている。パウロの伝道は失敗でも無駄でもな
く、福音の実を結んだ、伝道が成功したのです。