【主日礼拝メッセージ 】                                                     2016年10月16日 

  『人生に意味を見出す     
フィリピの信徒への手紙3章12−16節

山岸 明牧師

  先週の礼拝後、初めて礼拝に参加された方からメッセージに関連した質問を受けました。それは、神は私たちを愛して造られたと聞いたが、どうして神は人を平 等に造られなかったのか。特に障がい者の人たちはどんな意味があってこの世に誕生させられたのかとの問いでした。私も正直に答えました。この人がどうし て、あの人がなぜ障がい者で生まれて来たのかは分かりません。ただ、はっきりと言えるのは、神は人を造られ、どんな人でも愛されていること、そして造られ た者には必ず意味があることです。

 私たちはこの世の価値観の中でどのように人生の意味を見出していったら良いのでしょうか。ある人は自分探しをして人生の意味を探したり、また、自己実現 を目指していく中で存在意味を見出そうとします。それは、成功したい、偉くなりたいとか、たくさんの物を得たい。人から認められたい、受け入れられたい、 など人間の欲求の実現です。

 ソロモンは王としてすべてのもを手に入れ自己実現を成した時に言った。「目に望ましく映るものは何一つ拒まず手に入れ、どのような快楽をも余さず試み た。しかし、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」(コヘレト2:10−11)。多くの人が人生の意味を見出 すために目指した自己実現は空しく、そして得るものはなかったのです。自己実現では人生の意味や目的は見いだせなかったのです。

 結論:私たちは主イエスにあってのみ、自分が何者であるか、何のために存在するのか、そして人生の意味を見出すことができるのです。神と離れて人生の目 的や意味を見出すことできないのです。パウロは「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身をむけつつ、神がキリスト・イエスによって上 へ召して、お与えになる賞をえるために、目標を目指してひたすら走ることです」(13)と言った。私たちは過去にとらわれず、前のものに全力を傾けていき ましょう。神を仰ぎ見ている者の人生は必ず開けていく事を信じて。