重い皮膚病を患っている10人の人を主イエスが癒されました。しかし、主イエスのもとに戻って感謝したのは1人で、残りの9人は戻ってきませんでした。当
時は重い皮膚病を患っている人は、罪人(汚れた者)と言われ、人々から拒絶され、見捨てられ、隔離されたところに集められ、そこで暮らしていました。彼ら
が町に出かけるときには、大声で“私は汚れた者”と言って周りに知らせなければいけないという厳しい掟があり、彼らの叫びはいつも“私は汚れた者”でし
た。ある日、彼らは主イエスと出会った。すると彼らの叫びが変った「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(13)。
私たちも肉体の痛みのゆえに、心の痛みのゆえに、苦しみの中で、私はもう駄目だ、そんな叫びを持つ事があります。今でも世の中から、身近なところから、
苦痛の叫びが聞こえます。私は孤独です。私には希望はない、私の人生こんなはずではなかった。私は生きている価値もない、そんな悲痛の叫びです。
あなたのその思いを主イエスに向けて叫んでみてください。そのときから人生は変わっていきます。そこから人生に神の業が始まっていきます。これは信仰へ
のチャレンジです。信仰とは分かってから信じるのではありません。納得したら信じるものでもありません。主イエスを信じたら分かるのです。どんなに美味し
そうな料理でも、見ていただけでは美味しさが分かりません。食べて初めて分かるのです。神の恵みもそうです。神の味わいは信じてスタートしたときから始ま
るのです。
神の愛は10人すべての人に注がれましたが、主イエスのもとに戻って来て感謝をしたのは一人だけでした。何が彼らを分けたのか?9人は神からの憐みを受
けても、神がいるならそれは当然だと思っていた。戻った一人は神からの憐みは当然とは思っていなかった。相応しくない自分が神から愛されていること、神の
恵みが注がれていることが分かったとき、感謝せずにはいられなくなったのです。あなたは神の恵みの中で、今日も命が与えられ生かされていることを知ってい
ますか?