ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と言った。「悔い改め」とはギリシャ語で『メタノイヤ』と言います。『メタ』とは“変える”
という意味。『ノイヤ』は視点、心の在り方、というような意味です。故に、聖書が語る「悔い改め」とは心の向きを変える、生き方を方向転換するという意味
なのです。
聖書が私たちに「悔い改め」を迫るのは、私たちが間違った方向を向いて歩んでいるからです。パウロが「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめなが
ら」(ヘブライ人への手紙12:2)と言われるように、私たちの心を日々、主イエスに向ける事なのです。それでも私たちは弱く、自分勝手な思いを抱き、自
己中心に生きてしまいます。それでも、日々悔い改めて神に立ち返り、そこから、また出直すのです。それを続ける中で以前と変わり変化が起きてきます。それ
が成長なのです。
あの偉大な信仰者であるダビデ王はあるとき大きな罪を犯してしまいました。それは姦淫の罪と殺人の罪です。しかし、ダビデは傲慢になっており罪を犯した
意識はまったくなかった。ある日、主は預言者ナタンを遣わし、ダビデの罪をあらわにされました。ダビデは罪の重大性に気づき、打ちのめされて言った「わた
しは主に罪を犯した」(サムエル記下12:13)。
ダビデは神の前にへりくだり、心から悔い改めた。そして言った「もし、いけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げものが御旨にかなうのなら、わたしはそ
れをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51:18−19)。
神様は私たちがハレルヤと賛美することも、たくさんの奉仕をする事も、神様に献身をする事も喜んでくださいます。でも、それよりも喜んでくださるのは悔いた魂、砕かれた心を喜んでくださるのです。今日の礼拝を通して日々の罪を告白し悔い改めて神に立ち返りましょう。