【主日礼拝メッセージ 】                                                                  2017年1月8日 

               生きた礼拝   
ローマの信徒への手紙12章1−8節

山岸 明牧師

   私たちは毎週、日曜日の朝に礼拝をささげています。何故、日曜日に礼拝をささげるのか?それは主イエスが十字架で死に3日目の日曜日の朝に復活されたから です。復活は死から命へ、古き者から新しい者への幕開けです。私たちはただ復活を記念して礼拝しているのではなく、礼拝を通して新しい命を、力を頂いて一 週間の旅にでるのです。

  ですから礼拝はとても重要です。プログラムにそった形式だけの礼拝ではなく「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)。とあるように、私たちの礼拝は生きた礼拝でなければいけません。

 礼拝は私たちの存在そのものであり、生き方そのものです。礼拝は神の愛への応答であり、私たちは礼拝を眺めている見物人ではないのです。一人ひとりが、 わたし個人として、人間として、クリスチャンとして、又、仙川教会の教会員としての自分の有り方について問われ、それを吟味し、新たな課題と行動を示さ れ、感謝と讃美の中で信仰によって神に応答し決断していくのです。

 自分を見つめて、私はまったく変わらないとすれば、形式的な礼拝をしているのかもしれません。形式的な礼拝とは、ただプログラムを消化していくだけ。た だ歌い、祈りも、お題目のように唱え、ためになる話を聞いた、で終わる。そんな礼拝では、私は変わらない。私が変わらなかったら家族も変わらない。当然、 人生は変わるはずもない。

 一周間を振り返ると、神の御心に反する事を行ったり、神を忘れ自己中心の生活をしていたり、相手を困らせ、傷つけ、怒らせてきた。でも、この礼拝で自分 をよく吟味し、悔い改め、人生の軌道修正を行ない、真の礼拝者として歩み出すのです。またパウロは言いました。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけ にえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。私たちは日曜日だけのクリスチャンではなく、日々の生活の中で礼拝 者として生きていくのです。そのためにも日曜日に皆でささげる礼拝を大切にしなければいけないのです。