主イエスの前に一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」(8:6)と言った。中風(脳梗
塞・脳出血などの後遺症で半身不随など)。その僕を助けてほしいと願った。当時、一般的な僕とは奴隷であったり、身分の低い者が雑用などをする召使、その
僕が病気で動けなくなったら、用済みで捨てられるのが当然であった。だが百人隊長はこの僕の救いを求めて嘆願した。これは普通ではない。
主イエスは「わたしが行って癒してあげよう」と言われた。すると。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。た
だ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒されます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に「行け」と言
えば行きますし、他の人に「来い」と言えば来ます。また、部下に「これをしろ」と言えば、その通りにします。」百人隊長は権威ある者の言葉は必ずその通り
になる事を知っていた。
主イエスはこれを聞いて感心した。他訳では驚かれた。これも普通ではない。百人隊長が権力者である姿を捨てて、一人の僕のために自らが僕の姿になり、主
イエスの前に土下座するように嘆願した。どうしてそこまでするのか、これは百人隊長の僕に対する愛です。この僕を救いたい、これがすべての始まりです。僕
の救いのために、権力やプライド、私の都合などを全部捨てて、僕と同じ姿になった。主イエスは百人隊長の中に本物の愛を見たのです。
主イエスの愛も普通ではありませんでした「キリストは、神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、
僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6
−8)。主イエスの驚くべき愛です。驚くことは感動することです。私たちの中で主イエスへの愛の感動がうすれてくるような事があれば、それはあってはなら
ないこと。自らの信仰を点検してみよう。