【主日礼拝メッセージ 】                                                                       2017年04月02日 

   『十字架をめぐる人々(1) 総督ピラト』  

マタイによる福音書27章15−26節(新約p.56)

山岸 明牧師

  当時、ユダヤはローマ帝国に支配され、ローマの属国となっていた。ピラトはユダヤを治める総督として権威、権力をもった存在としてローマから遣わされてい た。主イエスを十字架刑にする最終判断をしたのもピラトでした。伝統的な教会では今も使徒信条が告白され、その中で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受 け、十字架につけられ」と記されている。この出来事は空想でも、神話でもなく、歴史的な事実としての告白です。

主イエスの十字架をめぐり多くの人々がいました。主イエスをピラトに引き渡したユダヤの指導者たち、ピラトは「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのた めだと分かっていた」(マタイ27:18)とある。真実が分からずイエスを十字架につけろと叫び続けた群衆。自分の思いとは違った救い主など必要ないと考 えた弟子のユダ、自分の保身を考えて判決を下したピラト、一体だれが主イエスを十字架につけたのか?歴史的にはピラト、だが十字架をとりまく人々に共通し ているのは「罪」、それは私の罪です。

今、主イエスは人間の罪のために十字架につけられている。私の罪をその身に受けて下さっておられる。主イエスは十字架に追いやった彼らに何を返したか?罪 に対しての裁きか、罰か、苦しみか?主イエスは十字架の上から「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34) と祈った。主イエスが彼らに、そして私に返したのは愛と赦しでした。

ピラトはこの後どうなったのかは諸説があります。問題を起こして処刑された。また熱心なクリスチャンになったとも言われている、ピラトは主イエスを処刑す る際「群衆の前で手を洗って言った。この人の血について、わたしには責任がない」(マタイ27:24)。もし、ピラトが本当にクリスチャンになったとする ならば、その道は一つ、主イエスを十字架につけたのは「私だ」という自覚と告白です。主イエスは今も、私たちに問われます。あなたはわたしの十字架を信じ るか。あなたは何と答えますか。