使徒言行録を見ると、使徒たちに何かが起きるとき、そこに必ず祈りがあったことが見れます。聖霊が降ったときも祈りがあった。最初の教会が始まったときも
祈りがあった。使徒たちが主イエスの御名によって祈るとき、そこに不思議な業が起きた。それは使徒たちの力ではなく、祈りを通して神様が働いてくださって
いた。
ある日、ペトロとヨハネが足の不自由な人を癒したことが原因で逮捕・投獄される事件が起きた。翌日釈放されるとき今後「決してイエスの名によって話した
り、教えたりしないようにと」(18)。脅され釈放された。ペトロとヨハネはどうしたか「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老
たちの言ったことを残らず話した」(23)。
彼らが最初に行ったところは仲間のいる教会でした。そこでこの一連の出来事を話し分かち合った。彼らはそれを聞いて皆で祈った。「主よ、今こそ彼らの脅
しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語るようにしてください」(29)。分かち合いと祈り、ここに教会の本来の姿がある。
また、ここに彼らの祈りの姿勢も見える。彼らが祈り求めたのは困難を取り除かれる事でも、困難から逃れる事でもなく、恐れから完全に解放されて、その困
難に立ち向かえるようになる事を求めた。祈りとは、直面している問題がどんなに大くとも、そこに目を向けるのではなく、天地をつくられた神の偉大さに目を
向け、そして、教会が御言葉を語り伝える事ができこと。
更に、信仰者が福音を語れるようになる事です。ですから、彼らはどんな厳しい状況にあっても、恐れから完全に解放され、厳しい現実に立ち向かい、神の望
まれるように御言葉を大胆に語れるようにと祈り求めたのです。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言
葉を語りだした」(31)。彼らの祈りに神様は答えられました。私たちも大胆に御言葉が語れるように共に祈っていきましょう。