【主日礼拝メッセージ 】                                                                          2017年09月10日 

                         
                『小さなことに愛を込めて』

                         ルカによる福音書16章1−13節
                              山岸 明牧師

  主イエスは「わたしは仕えられるためではなく、仕えるためにきた」(マタイ20:28)と仰せられた。主イエスは、私たちも同じように、主イエスと同じ心 をもって神と人に仕える者になることを願っている。この世は、権力、所有物、名声、地位、をどれだけ獲得したかによって人の偉大さをはかろうとするが、主 イエスはどれだけ人に仕えたかによって偉大さがはかられると仰せた。だから「偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべて の人の僕となりなさい」(マルコ10:43-44)。私たちは誰でも僕にはなりたくはありません。クリスチャンであってもそうです。仕えるより、仕えられ たいのです。そこで、私たちが仕える者になるには、僕の心を養わなければなりません。

 どのように僕として仕える心を養えるのか?第一に仕える事から始めます。私たちの学びの50%は説教や分級や祈祷会から学びます。残りの50%はメッ セージを実践するとき、仕える時に学びます。もし仕えなければ半分しか学ぶ事しかできません。しかし、仕えはじめるならば、聖書が言われる多くの事を学ぶ 事ができます。愛すること、忍耐すること、互いに仕え合う事など、これは、説教を聴いたり、聖書の学びをしている時には学べないのです。実践している時で す。

  主イエスは、人の嫌がる卑しい仕事を率先して行いました。重い皮膚病の人に仕え、人の足を洗い、子どもたちの面倒を見、朝食の用意もしまし た。人の偉大さは小さな仕事の中に現れるのです。もし、僕の心を持って打ち込むならば、どんなにつまらない、小さな事でも価値ある働きとなるのです。そし て、喜んで僕になろうという人のための道は大きく開かれています。
大切なのは、どれだけ大きな事をするかではありません。小さな事に、どれだけ大きな愛を込めるかです。目立たない事、誰からも評価されず、誉められない 事、小さな事だから誰にも知られない。しかし、人間の目にどう見えるかではなく、神様の目にどう見えるかです。神様が見ておられるのは、その人が小さな事 に込めた愛なのです。神様は、目に見える結果ではなく、目に見えない愛を見て評価される方なのです。

 
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