【主日礼拝メッセージ 】                                                                          2017年09月17日 

                         
                弱さは恥ではない

                         ヘブライ人への手紙4章14−16節
                              山岸 明牧師

   教会に来る前、私は弱音を吐くことは恥ずかし事だと思っていた。だが、その考えが間違っていた事を教会で教えられた。多くの人が弱音を吐けない社会の中 で、自分に鞭を打って懸命に生きていると思う。そう感じる人は教会に来て信仰を持って頂きたいと願う。

 教会に来たら善い人になれる、立派な人になれる、愛の人になれる、そんな事はめったにない。教会に来る人は立派な人ではなく神様に頼らなければ生きて行 けない弱い人間です。信仰者はそれを自ら認めた人です。自分の弱さに正直になって「助けて」と言える人。聖書に38年間病に苦しむ男性が出てきます。主イ エスはその人に「あなたは良くなりたいか」と聞いた。何故、そのような当たり前のことを聞くのか不思議に思うが、主イエスは正直に「良くなりたい」「助け て」と言う言葉を聞きたいのです。

 教会は立派な人間の集まりではなく、神様から助けてもらわなければ、赦してもらわなければ、神様から愛されないと生きていけない、そんな弱い者たちで す。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではありません」とあるように、今日も神の憐みの中で生かされている。それを信じ感謝するとき、神 に頼る生き方は一見弱いように見えるが、実は力に満ちた強い生き方であることを体験します。

 「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが,神の力によって生きておられるのです」(コリント二13:4)。主イエスの十字架は神様の敗北で人 間の勝利のように思えたが、主イエスの復活によってすべてに勝利された。その「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(コリント(二)12:9)とパウロ は言った。だから弱さを恥としないで、弱さを誇ることができるのです。

 「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行 き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリント二12:9-10)と告白した。


 
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