【主日礼拝メッセージ
】
2017年09月24日
山岸 明牧師
主イエスは捕らえられ連れていかれたとき、ペトロは心配になり遠く離れて従った。するとある女中がペトロを見て、「この人も主イエスと一緒にいました」と
言った。しかしペトロはそれを打ち消して「わたしはあの人を知らない」と3度も否んだ。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは「今日、鶏が泣く前
に、あなたは三度私知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。ペトロは絶望の中で祈る事もできず、ただ泣く
だけだった。
私たちも絶望の中にあるとき信仰だ、愛だ、希望だ、と聞けば聞くほど祈りが空しく感じ、信仰が消え失せたかのように、祈ることも出来ず、唯
々沈黙してしまうことがある。マザーテレサは「祈りは沈黙である」と言った。沈黙する中で主の御声を聞くと言うのです。それこそが祈りであると言いまし
た。ペトロは沈黙の中で主イエスの声を聞いた。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力
づけてやりなさい」(ルカ22:32)という祈りの声です。
「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」(ルカ22:33)。といったペトロの祈りが無駄になったかのように思えたが、その
ペトロの祈りを、主イエスは自分の祈りに変えて、ペトロよ「わたしは死んでもあなたと共にいる」と言って、ペトロの祈りを成就させてくださった。まさに祈
りの逆転、主イエスの祈りの心です。
私たちも今まで、祈れない時があった。祈りの空しさを感じる時もあった。祈りが絶望に変わった時もあった。信仰が無くなりかけたときもあった。でもこう
して私たちはここに集い、主を礼拝し、このみ言葉を聞けるのは、主イエスが弱い私のために信仰が無くならないように祈ってくださったからです。私たしたち
はこのような素晴らしい「祈りの心」を与えられているのですから、主イエスの祈りを自分の祈りとして兄弟たちを励まし力づけてやりましょう。