【主
日礼拝メッセージ
】
2017年10月29日
山岸 明牧師
与える幸い
聖書に「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)とあります。独り子とはイエス・キリストです。世を愛さ
れたとは、私たちひとり一人のことです。神は私たちの罪を赦すために御子イエスを十字架につけられた。愛は与えることでる。主イエスの人生も愛を与え続け
た人生であった。神は私たちにも主イエスと同じように愛を持って与える者になる事を願われています。
昔、釈迦が弟子たちに托鉢に出るとき貧しい家からまわりなさいと教えられたと言う。金持ちの家のほうがたくさん与える事ができるのにと思った弟子が、な
ぜ、貧しい家から回るのかと聞いた。釈迦は貧しい人は与えられる事ばかり考える。それではいつまでも貧しいままである。それよりも、たとえスプーン1杯の
粥だけでも、自分にも与える事ができると知ったとき、その人は豊かになれるのだと教えたそうです。スプーン1杯の粥でも、人に与える事ができた。人に喜ん
でもらう事ができた。こんな自分でも必要とされた。そこに与える喜びが湧いてくると思う。主イエスが仰せられた「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一
人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40)。クリスチャンはこのみ言葉を糧に与える者となりたい。
受ける幸い
人間社会は働きかけ与えると言う積極的な行為と、受けるという両方で成り立っている。受ける人がいるから与える人の深い心、美しい心が報いられるので
す。誰も受け取ってくれる人がいなければ、与える人の存在理由がなくなってしまう。私たちは与えるという事ばかりを意識してしまいますが、実は人間は何か
を受ける事で生きている存在に気が付くべきです。私たちは毎日、太陽の光を受け、雨の恵みを受け、無償で空気を受けている、神が人間を造られたとき「人が
独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)と仰せられアダムとエバを造られた。ここに与える(助ける者)受ける(助けられる
者)としての人間社会の原点があり、この社会こそ神の御心なのです。