【主 日礼拝メッセージ 】                                                                                     2017年11月05日 

                         
『なぜ、との格闘』

ヨブ記42章1−6節
山岸 明牧師             

   私たちの人生には理不尽な事が起きます。時には、どん底に突き落とされたような苦しみや悲しみを味わう事があります。その出来事をどう理解して良いのか分 からず、私たちは必死にその答えを探します。「なぜ、私なのか」「なぜ、今なのか」、「なぜ、こうなったのか」、誰も答ええてくれない。いや答えを持たな い、人間の知恵をはるかに超えたことがあるのです。

 ヨブは東の国一番の富豪、10人の子どもも与えられ、信仰もあり、世の幸せと思える事を全て得ていた。神の目からもヨブは「無垢な正しい人で、神を畏 れ、悪を避けて生きていた」(1:1)。ところが突然、全ての財産と愛する子供たちを失う災難に遭ってしまった。更には、自らも病に侵され苦しんだ。しか しヨブは信仰によって「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」(1:10)。 

 だがヨブの本当の苦しみはここから始まった。神から与えられた試練の意味を見いだせない。誰も納得いく答えを与えてくれない。その答えを神に問い続ける が神は沈黙されたまま。納得のいかないまま神に対する不信だけが募っていく。ある日、ヨブの問いに対して神が口を開いてくださった。ヨブよ「わたしが大地 をすえたときお前はどこにいたのか、天地を造ったのはだれか、知っているなら言って見よ。分かっているなら答えて見よ。」ヨブの問いには全く答えていませ ん。この試練に何の意味があるのかも分かりません。

 しかし、不思議な事に神からの問いかけにヨブの心は悔い改めへと導かれていくのです。そして最後には「あなたのことを耳にしておりましたが、しかし今、 この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」と告白した。み言葉はいつも私たちに問いかけ、主イエスへ の信仰へと導くのです。そのみ言葉を聞き従っていくとき「なぜ」から解放されるのです。「わたしのしていることは、今あなたにはわかるまいが、後で、分か るようになる」(ヨハネ13:6)



 
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