【主 日礼拝メッセージ 】                                                                                   2017年11月26日 

                         

仰ぎ見る

コリントの信徒への手紙二3章16−18節
 荒木智哉執事

 
 私たちは日々の中で様々なことを願って生きています。そのような中で、得ても得ても満たされない飢え、または何かを失う恐れ、目の前の現実に意味を見出 せないことへのもがきや虚無感などがやってくることはないでしょうか。もし、神様がいるのなら、なぜこのような現実があるのだろうかと、嘆くことはなかっ たでしょうか。それでも尚、神という存在は一貫して愛であり、私たち一人ひとりにふさわしく必要なものしか現実に起こしません。

 私たちは、様々な現実に振り回されて、神が愛してくださっているという真実を、気づかず間に曇らされていくことがあります。そのような時、他の何かで満 たしを埋め合わせようとしますが、それは一時的なもので解決にはなりません。大切なことは、神という存在を今一度、“仰ぎ見る”ことです。そこには魂の自 由があり、どんな状況でも奪い去ることのできない希望があります。

 私たちが神を仰ぎ見れなくなる“覆い”とは何でしょうか。
1、罪
 罪とは、私たちの命とその目的を創られた神の意志に背くことです。神は愛であり、罪とは愛の法則に従わないことです。罪から恐れや怒りや悪意などが生じ、平安はなくなっていきます。
2、自己優先
 私たちの命の目的を知っている神を後回しにし、自分の浅はかな知識や、揺れ動く思いのままに生きて、本来の目的(目指す光)を見失っていきます。
3、キリストとの交わり不足
 神が私たちのためにキリスト(救いの道)を世界に与えた事実を知り、受け入れ、その寛大な愛と赦しを自身に沁み渡らせることなしでは、消えることのない光を見ることはできません。

「主を仰ぎ見る人は、光と輝き  辱しめに顔を伏せることはない。」(詩篇34編6節)神から来る希望を仰ぎ見ること、そこに自由と平和があります。私たちは今一度、自身が何を見つめてい るか向き合いながら、希望と栄光とを世界に映し出す者として歩んでいきたいものです。

 
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