主イエスの十字架に関わった人々はたくさんいるが、ここでは3人を見ていきます。最初に弟子のユダ、次に総督ピラト(ユダヤを統括する者)、最後にヘロデ
(ユダヤの王でヨハネを処刑にした人)。彼らは敵対している者同士であったが、ある事で一致をした。それは主イエスなど必要ない。
十二弟子のユダは救い主を待ち望んでいた。彼が待ち望んでいた救い主はローマ帝国の支配下にあるユダヤを解放してくれる王であった。しかし救い主である
はずの主イエスは病人を癒し、罪人と交わり、愛と平和を語り続けるだけ、剣を持って戦おうとしない。ユダはそんな主イエスが歯がゆくてしかたなかった。つ
いにユダは敵に主イエスを売り渡した。ユダが考える救い主であるかどうか確かめる為ため、それでも剣を持たないような救い主なら、もはやユダにとって主イ
エスは必要なくなった。
次にピラトは主イエスに何の罪も見出せず釈放しようとしたが、群集の「イエスを殺せ」の声に押され、自分の地位・名誉、確保の為に主イエスの十字架を許
可した。ピラトは神を恐れないで人を恐れたのです。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒5:29)とあるが、ピラトは人間に従った。
ヘロデはピラトから送り返された主イエスに会いたいと思っていた。それは主イエスが行っていた数々の奇跡を見たかったから、私たちも神様がいるならその
力(奇跡やしるし)を見たいと思います。特に自分や愛する家族が病気であった場合、それを治してほしい、苦しみや悲しみのある人はその根底にある問題を取
り去ってほしいと望みます。しかし、主イエスはヘロデが奇跡を行いしるしを見せろとの要求には答えませんでした。ヘロデはしるしや奇跡が起きないなら、出
来ないなら、もはや救い主など必要なくなった。
私たちも彼らと同じようにどこかで主イエスを自分の思った通りの方であってほしいと望んでいないでしょうか。どこかで神よりも人を恐れていないでしょう
か。神よりも人に従っていないでしょうか。奇跡やしるしだけを見たいと望んでいないでしょうか。主イエスはこのような自分勝手な思い(罪)を持った人々に
よって十字架につけられたのです。この受難節にあたり自分の信仰を振り返ってみましょう。