山岸 明牧師
今日、全国の教会で礼拝が献げられています。真の礼拝とは何でしょうか。それは神を神として崇めることです。とても単純明快です。だけど難しい。何故な
らば、この世は神を認めず、また必要しない社会だから、人間が全てを支配しようとする世界、神が一番ではなく、常に自分が一番と言う世界です。
しかし、礼拝はこの世の価値観とは正反対で、神を崇め、神を第一とするとともに、自分は何者なのか、真に生きるとはどういう事かを礼拝を通して確認して
いきます。神は私たちをお造になり、私たちを愛しておられる存在、神は神、人間は人間、その順序を正しい順番にするところ。何でもそうですが、順番を間違
えると混乱が起き、どこかで行き詰ってしまいます。真の礼拝は神を第一として崇め、ひっくり返ったこの世界を正常な姿に戻す事なのです。
主イエスは礼拝について「霊と真理を持って礼拝しなければならない」と仰せられました。霊の反対は何ですか?それは肉です。肉的とは自分の欲望を満たす
こと、満たすには受ける事が中心となる。逆に、霊的とは自分を神に献げると言う事です。ここに注目しなければなりません。私たちは礼拝を献げるのです。皆
さんは、献げるという思いと、受けるという思いのどちらを持って礼拝をしていますか?受ける事と、献げる事とは反対です。礼拝は献げるもの。パウロは「あ
なたがたのなすべき礼拝は自分自身を献げる霊的な礼拝でなければならない。」(ローマ12:1)と言われました。
よく、礼拝や集会のあとに恵まれたとか、恵まれなかったと言います。受ける事を中心にしていたら、恵まれた、恵まれなかったとなり、そこから出てくるの
は肉的な不平と不満です。受ける中心にはいつも「私」がいて、私が満足できたら恵まれた。私が満足できなければ恵まれなかった、となる。献げる礼拝をした
ら恵まれるのです。今日は恵まれた。なぜ、礼拝を献げる事が出来たから。私たちにとって礼拝は週の終わりの付け足しではなく、週の初めの出発の日です。私
たちは礼拝を通して私が一番の世界から神が一番の世界へと導かれていきます。これが神の創造された正しい世界(社会)です。神の摂理に歩めば実生活の中で
神の恵みを体験できます。今日も礼拝を献げることができることに感謝。