主日礼拝メッセージ                                                                                   2018年06月03日 

                         
キリストの思いを心に

フィリピの信徒への手紙2章1−11節
                                                                                                   山岸 明牧師              

私たちが互いに愛し合うとき、それは主イエスの喜びです。反対に愛し合わないとき、それは主イエスの悲しみです。パウロは「同じ思いとなり、同じ愛を抱 き、心を合わせ、思いを一つにして」(2)。互いに愛し合いなさいと言った。私たちはそれぞれ愛の心を持っています。でも、その心は同じではありません。 きっと、愛の定義も、表現方法も、形も違います。ですから、私の愛で、あなたの愛で一致するのではなく、主イエスの愛の心で一致するようにと言われた。 「汝ら、キリスト・イエスの心を心とせよ。」(2:5)文語訳

主イエスの愛の心とは?主イエスの愛は文字でもなく、絵でもなく、哲学でも、理屈でもない、愛は出来ごとです。「キリストは、神の身分でありながら、神と 等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に 至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6−8)。これが主イエスの愛の心であり、愛の出来事です。

主イエスは神と等しい者であることに固執せず、ご自分を無にされたとある。互いに愛し合う秘訣は自分に固執しないこと、私が握っている私を捨てる事、私の 正しさを捨てる事です。どうしたら捨てることができるのか、主イエスが命を捨てられた十字架の道に従うこと。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架 の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のも のがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて父である神をたたえるのです」(9−11)。

私たちが自分の正しさを捨てようとするとき、捨てさせないという肉の思いが働きます。痛みも覚えます。だが、その先には主の大きな祝福があります。それ は、すべての人が主イエスを主だと告白する。救われる人が起こるのです。なぜ、互いに愛し合うところに神が見えるから、神は愛だと知るから、主イエスの心 を自分の心として互いに愛し合いましょう。
               

 
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