山岸 明牧師
「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」(3)。
文語訳では「幸いなるかな、心の貧しき者。」フランシスコ訳では「自分の貧しさを知る人は幸いである。」原文では「霊において貧しき者は幸いだ。」となっ
ている。これは、物質的にも、経済的にも、精神的にも、肉体的にも、あらゆる面で自分で自分を支えられない、存在における極貧状態のことを言う。
主イエスはなぜ、そのような人が幸いだと仰せられたのか。それは、その後の言葉に続く。なぜなら「天の国はその人たちのものである。」そのことゆえに天
の国はその人のものになる。天の国とは神の国のこと、神の国とは神がご支配する領域のこと。貧しさゆえに神の救い、愛、赦し、平安、希望があなたのものに
なると仰せられた。
主イエスは病気、苦しみ、極貧、そのものが幸いと言われたのではなく、問題は、その貧しさを何に結び付いていくのかです。貧しさが何にも結びつかなけれ
ば、貧しさは気の毒、可哀そうで終わってしまう、しかし、貧しさが主イエスに結び付て行くならば、それは幸せに結びついていく。
主イエスが話を終えられ山を下りると、そこに重い皮膚病を患っている男性が来た。まさに人生における霊の貧しき人です。彼はひれ伏して「主よ、御心なら
ば、わたしを清くすることはおできになります」(8:2)と言った。すると主イエスは手を差し伸べその人に触れ「よろしい、清くなれ」と言われると、たち
まち皮膚病は癒された。当時、この病は罪の結果であり、また伝染すると言われ近づくことも触れる事も禁じられていた。
主イエスは触れずして言葉だけで癒すことができるお方なのに、わざわざ彼に触れられた。なぜ、主イエスがその人の病を、痛みを、苦しみを、悲しみを極貧
を、ご自分の身に受けられたのです。それが主イエスの十字架です。彼の貧しさが主イエスに結び付いたのです。極貧をその身に負ってくださった主イエスのみ
が仰せることができる「あなたの罪は赦された」「あなたは永遠の命を得ている。」私たちも自分の霊的貧しさを知り、どんな時でも主イエスのもとに行って
「幸いなるかな、心の貧しき者」と呼ばれる者になりましょう。