主日礼拝メッセージ                                                                                   2018年07月22日 

柔和な人々は、幸いです』


マタイによる福音書5章5節,   8章28-29節
                                                                                                   山岸 明牧師      

柔和な人とは神の前に本当の自分を生きる人。よく自分らしく生きたいと言います。私たちは本当の自分を知っているでしょうか。あなたはどういう人ですかと 聞かれたら何と答えますか?自分の事は自分が一番知っていると言いますが、案外、自分の事は分かっていないのではないでしょうか。私たちはいろいろなもの で自分を高く、強く、大きく見せようとしていますが、それは偽りの理想の自分であって、そういうものを全部取り払ったときの自分が本当の自分です。それは 何もない弱々しい自分。そんな自分は受入れられない。だから無理をして背伸びをし、強く大きく見せる。結果、傲慢な自分を作りあげる。

柔和な人とは、こんな何もない自分でも主イエスが命を捨てるほどに愛してくださった。そのことに気づき、その愛にしっかりと立っていくことです。考えただ けでも弱々しい、自信のない生き方のように思われますが、全くの逆、この柔和な生き方こそが強さの秘訣であります。「モーセという人はこの地上のだれにも まさって謙遜であった」(民数記12:3)モーセは失敗しながらも神に従った。その柔和さゆえに神はモーセを豊かに祝福し、イスラエルをエジプトから脱出 させる力を与えた。

柔和な人は地を受け継ぐ
主イエスの目に映っている群衆たちは、地を失っている人たちです。彼らの歴史は神に逆らい、背を向けてきた傲慢な歩みだった。結果、地を失ってしまった。 神は多くの預言者を立て悔い改めて神に立ち帰るように警告してきたが、その預言者たちを殺し、神に立ち帰る事をしなかった。主イエスは、もし、あなたたち が柔和な者となるならば地を受け継ぐことができる、約束の地を取り戻すことができる。それはこの地上における祝福でもあり、やがて約束されている御国につ ながるものです。

主イエスは「わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:29)と 仰せられた。軛を負うとは主イエスと共に歩み、御心を学ぶということ。それは御言葉を通して主イエスのお姿、愛に触れていくとき、私たちは安らぎを得て、 さらに柔和な者へと変えられていくのです。

               

 
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