主日礼拝メッセージ                                                                                   2018年07月29日 

義に飢え渇く人々は、幸いです』


マタイによる福音書5章1-12節
                                                                                                   山岸 明牧師      

「飢え渇き」とは非常に激しい求です。聖書が私たちに語りかける渇きは「義」に対しての求めであります。 詩篇42編に『涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐ ことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。「お前の神はどこにいる」と。』(42:2−4)。

人には「わたしの魂」と言うべきものがあります。これは他の生物にはありません。神が人間を造られたとき、人間にだけに与えられた魂、霊の器です。この魂がどのような状況になっているのか。飢え渇いているのか、満たされているのか。

魂の飢え渇きとは、何をやっても満たされない心の事です。もしかすると自分の魂が渇いている事に気が付いていない場合がある。また気付いたとしても、その 飢え渇きをどうしたら良いのか分からず、何かをもって飢え渇きを満たそうとする。ある人は仕事や経済であったり、人間関係であったり、お酒であったり、 ギャンブルであったり、いろいろです。ただ、求めて行く先が問題です。あなたの飢え渇きを「幸いだ」と仰せられるお方のもとに結び付けていくのか、それと も詩編にあった「お前の神はどこにいるのか」と言う、この世に求めて行くのか。

私たちは「お前の神はどこにいるのか」と言う世界に生きている。この世を見て見ろ、不正にまみれ、堕落し、弱い者が虐げられ、戦争があり、この世のどこに 神がいるのか・・・と言われる世界です。教会に行ったって何も良い事がない。神を信じても病気はするし、何も変わらない。信仰の意味が分からない。これも 魂の飢え渇きです。

主イエスははっきりといいます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:37‐38)。を信じて歩みましょう。

               

 
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