山岸 明牧師
私たちは人生の中でたくさんの傷を、痛みを、悲しみを背負います。やり切れない思いに悩みます。そんな時に、その痛みをどこに持って行ったらよいので
しょうか。よく自分の痛みを人に結びつけていくことがあります。すると、その人の傷口から苦いものがあふれ出て、結果、相手に対しても周りの人々に対して
も傷つけてしまいます。また、その傷が自分に向けられるとき、自信をなくし、こんな私では駄目だと言って、自分を責め、自分を否定して、傷ついたまま前に
進むことができなくなってしまいます。
しかし、私たちの傷・痛みをイエス・キリストに結びついていくならば、主イエスの憐みを受け、それによって傷が癒されて、今度は私の傷口を通して愛に溢
れた主の憐みが傷口から流れ出てくるのです。主イエスは十字架で傷を受け、痛み、苦しみました。肉体だけではありません。弟子たちに裏切られ、世から捨て
られ、周りからののしられ、つばをはきかけられ、心も体も深く傷ついた。イザヤは言った「キリストの受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ
53:5)。
主イエスを傷つけたのはだれか、主イエスに槍を刺したのはだれか、主イエスに鞭打ったのはだれか、主イエスにつばをはきかけたのはだれか、それはこの私
です。わたしの罪が主イエスを十字架に付けたのです。だが、主イエスから返ってきたのは仕返しではなく、愛であり、許しの憐れみであった。主イエスは私た
ちを深く憐れみ、すべての痛みをご自分の痛みとして引き受け、十字架の上で私の身代わりに痛んでくださったのです。私たちは大胆に主イエスの前に自らの
傷、痛み、悩みを差し出しましょう。主イエスはそんな私を深く憐れんでくださいます。そして、その憐れみを受け、私たちも憐れみ深い者となっていきましょ
う。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」(マタイ5:7)。