昔
から人々は神を見たいそんな思いがあり、木や石や金属で神を表そうとした。ある神学者が「全ての偶像礼拝の根底には、手に触れうる神を慕い求める人間の切
望がある」と言った。人間がいろいろな神々を造っていく、その心の奥底には、神を見たい、触れたいと言う思いがある。だが人が神を造ったとき、それは何で
あれ神ではない。神は人間が造りだすものではなく、神が人間を造られたということが真実です。
主イエスは弟子や群衆を前に「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(8)と仰せられた。どういう事でしょう。主イエスは神が人となって来られたお方です。弟子も群衆も今、目の前に神なる主イエスを見ているのにそれが分からないでいる。
心が清いとは
純粋で汚れもなく、悪い考えも持たず、怒らず、妬まず。そのような心を持てば神が見えるのでしょうか、それとも滝にうたれ身を清め、たくさんの修行をすれ
ば清くなり神が見えるのでしょうか。聖書に「罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。」(ヤコブ4:8)とある。「心の清い」の反対は
「二心」であると言います。それは言い換えると「偽善」と言うこと。主イエスが最も嫌ったことです。ギリシャ語の偽善者は役者と言う意味もあって、本当の
自分ではない者を演じること。清くないのに清い自分を演じていく。すると心が二つに分かれていく。
私たちが本当
の清さを手に入れるには、本当の自分の姿で主イエスの十字架のもとに行く事です。主イエスの前で役者(偽善)を演じるのではなく、自分の汚れを認め、弱い
のに強いふりをし、汚れているのに清いふりをし、悪人なのに善人のふりをしてきた。偽善者であった自分を悔い改め、この私を憐れんでくださいと祈る。破れ
た心をもって神の前に出るなら必ず神を見い出せます。
弟子のフィリ
ポが主イエスに「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言った。主イエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わ
たしが分っていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ14:8−9)と仰せた。主イエスを見た者はすでに神を見ているのです。