ユダヤ教徒のエリートだったパウロは幼いころから聖書を学んでいた。彼は聖書の神を知っているつもりだった。しかし、それは聖書の神について知っていたの
であって、神を知っていたのではないという事に気が付いていく。パウロは能力、身分、全ての点で恵まれ、自信にあふれていた。生粋のユダヤ人でエリート中
のエリートとして実力を誇っていた。律法の義については非のうちどころのない者と自らを絶対的な、そして完璧な者として自負していたのです。
本当の神を知ったとき:パウロはキリストの光を心に受けたときに、自分の心の奥底に、自分の意志や信念ではどうにもならないものがある事に気づいた。それ
は「善をなそうという意思はありますが、それを実行できない。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。それはもはやわたしではなく、わた
しの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:18−21)と告白。それはパウロが着飾っていた誇りやプライドといった鎧が一つ一つ剥がされていったときで
した。そしてパウロは本当の自分を知った。
本当の自分を知った時:今まで自分が軽蔑して人々とまったく同じ、弱くて、愚かで、罪人である自分を発見。こんな私をだれが愛してくれるのか?私など愛さ
れる価値のない者、赦されるはずのない者、しかし、こんな私のために命を捨てるほどに愛してくれた方がいた。こんな私を認め必要とてくれた方がいた。それ
が主イエス・キリスト。パウロはこの愛を知ったとき、今までの自分の大切にして来たものは、すべてごみに等しいものだ。むしろ不利なもの、なければ良かっ
たもの。あってはならないもの、そのように見えてきた。
不完全な者として生きるとき:最も大切なことは「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦しあいなさい。主があなたがたを赦してくだ
さったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイ3:
13‐14)。ここに社会が飢え渇いている満たしのすべてがあります。あなたがたも同じようにしなさい。後は実行するのみです。