主日礼拝メッセージ                                                                                   2018年09月30日 

キリストの僕

ガラテヤ信徒への手紙 1章10節
                                                                            山岸 明牧師     
              
   私たちは主イエスの僕として神に喜ばれる生き方をしているでしょうか。それとも人の歓心を買おうとする生き方をしているでしょうか。私たちは今日、改めてキリストの僕として生きる決心をしたい。そのためには僕の心を持たなければできません。

僕は従順でなければならい「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分にな り、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2)。主イエスは神と 等しいものである事に固執しなかった。私たちも自分に固執しないこと。

僕は何をするにしても心から行うこと。立派になりすぎると小さな働きに関心を持たなくなるが、主イエスは人の嫌がる働きを率先して行った。重い皮膚病の人 に仕え、人の足を洗い、子どもたちの面倒を見、朝食の用意もした。人の偉大さは小さな働きの中に現れます。もし、僕の心を持って打ち込むならば、どんなに つまらない事でも価値ある働きとなります。そして、喜んで僕になろうという人のため主イエスはその道は大きく開いてくださいます。

僕は謙遜を身につけ、互いに仕え合う。自らの働きが人に認められるようになっても、謙遜にそれを受け止めるのです。パリサイ人や律法学者たちは人助けや施 し、祈りさえも人の歓心を買うために行った。主イエスは「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(マタイ6:1)と仰せられた。 また、霊で始めたものを、肉で仕上げてはいけないとも仰せられた。それは神に喜ばれようとして始めたものを、最後には人の歓心を買う為、自分の満足を満た すための働きにしてはならない。謙遜にへりくだって、キリストの僕として歩みましょう。
 
今日、多くのクリスチャンが僕の心をどこかに置き忘れています。私たちの働きが人の目に留まらなくても、感謝される事がなくても気落ちせずキリストの僕と して生きよう。たとえ小さな働きであっても、神はその働きを覚え、豊かに報いて下さるから。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人 は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42)。    感謝


               

 
 戻る