今は自己愛が果てしなく増大している時代です。自分を愛するという事は大切なことですが、そこにとどまり続けると最後には自己愛に溺れ、やがて沈んでしま
う。私たちはどこかで愛するという生き方に転換していかなければならない。しかし、自己愛の殻を破るには痛みや犠牲をともなうことになります。
あるとき律法の専門家がイエスを試そうとして永遠の命について質問した。そのときにある例えを話された。「ある人が追いはぎに襲われ、服をはぎ取られ、
殴られ、半殺しにされた。そこに祭司が通りかかったが見て見ぬふりをして立ち去った。レビ人もその場所にやってきたが、同じように、その人を見ると、道の
向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたサマリア人が通りかかった。彼はその人を見て憐れに思い。傷の手当をして宿屋に連れて行って介抱した。そ
して宿屋の主人にこの人を介抱を頼み、費用がもっとかかったら、帰りがけに払いますと言った。主イエスはこの三人の中で誰が追いはぎに襲われた人の隣人に
なったのかと聞くと、その人を助けた人ですと言った。主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた。
祭司やレビ人は「神を愛し、隣人を自分のように愛すること」この教えをいつも聞いていた人たちです。しかし、彼らの隣人愛は自分にとって損か得か、自己
愛の中で愛することの出来る者だけを愛していった。それに対してサマリア人は自分の立場や自己愛を越えて出て行き、さらに自分の持っているものを差し出し
て人を愛していった。そこには痛みと犠牲がともなった。主イエスは、そこに本当の隣人愛があると言われた。自我の中での愛は痛みも犠牲もない。
主イエスは私のために十字架の痛みをもって、そして自らの命と言う大きな代償・犠牲を払って愛してくださった。ここに愛があった。私たちが主イエスの十
字架の愛の痛み・犠牲を知る時に、これほどまでに愛されているという喜びが湧き、それが生きる力になってくる。私たちは愛されるために生まれ、愛するため
に存在している。自己愛の殻を打ち破って隣人を愛していくとき、そこに必ず痛みや犠牲がともなうが、でも恐れてはならない。その殻を打ち破った時、そこに
は新しい世界がある。母親が新しい命を生み出すとき、そこには大きな痛みと犠牲がともなうが、その先にあるのは大いなる喜びです。