主日礼拝メッセージ                                                                                   2018年11月 04日 

『心を見られる神

マルコによる福音書 12章41‐44節
                                                                            山岸 明牧師     
                

「イエスは賽銭箱の 向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二 枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、 だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(マルコ 12:41−44)

金持ちはたくさんの献金をした。一方、貧しいやもめはわずかな献金であった。周りの人 たちは金持を称賛した。だが主イエスはだれよりもたくさん献金したのは貧しいやもめだと言った。金持ちは有り余る中から献金をしたが、貧しいやもめはわず かだが生活費の全部を献げた。神様は私たちの献金の額面をご覧になるのではなく、神様に対する信頼と犠牲を喜ばれるのです。神は私たちの心をご覧になるの です。

私たちの生活で一番の現実はお金です。お金というところで神様に絶対的な信頼を置く事 ができたら、私たちは現実を納める事ができます。逆に信仰、信仰といってもお金の部分で神様に信頼する事が出来なかったら、現実的な信仰とは言えません。 その人の信仰が現実なものであるかどうかは、神様に信頼する時にお金を正しく納める事ができるかどうかです。私たちの信仰が抽象的であれば祝福も抽象的で す。私たちの信仰が現実的であれば祝福も現実的です。

生活費を全て献げた女性は、このあと飢え死にしたと思いますか、路上生活者になったで しょうか。その後のことは聖書には記されていません。しかし、聖書には「あなたの信じた通りになるように。」「あなたの信仰があなたを救った。」とあるよ うに、あなたの答えが今の信仰を表しています。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、これらのものはみな加えて 与えられる。だから明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:33)。私たちが神に信頼するよりもお金に信頼して、お金により頼んでいくならば、私たちは逆 にすべてを失っていきます。でも、神を第一として正しくお金を納めていったら、私たちは経済的にも祝福されていくでしょう。現実的な祝福を得たいのなら、 私たちの信仰も現実的でなければなりません。
               

 
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