主日礼拝メッセージ                                                                                   2018年11月11日 

証し:先立ち備えてくださる神

詩編37編23-24節
                                                                              吉野輝雄執事  
                
  皆さんは、今賛美した賛美歌103番の歌詞「数えてみよ、主の恵み」を実行していますか?この賛美をする度に、どんな事からでも喜ぶことを捜し出す「よ かった探し」ゲームで、周りの人の心を明るくしてゆく少女ポリアンナ(かつてのTVアニメの主人公)を思い出します。今風に言えば、ポジティブ思考の源泉 がここにあります。

 私も1週間の出来事や体験を振り返る時に、主が備えて下さった恵みを思い起こし感謝するように心懸けています。翌朝をポジティブな気持ちで迎えられるか らです。単純なことですが効果があります。むろん、人生には思い通りに行かずに落ち込む時、予定を組んでも想定外の出来事が起こって大慌てして失敗する時 があります。その時はどうすればよいのか?

 今日は、私のつたない体験をお話し、単なる心がけでなく生ける主なる神が先立って道を開いて下さったという事例をいくつか証しさせて頂きます。事例とし ては、日々の些細な気づき、偶然の出遭いが実は主に私が遣わされた事と諭らされた体験、また先週1週間の出来事ですが、信仰の視点から見直すと生ける主の 計らい、支えがあったと素直に信じられるのです。
 しかし、そのような体験は、いわゆる手前味噌の解釈、あるいは神の関与を持ち込まないでも解釈できると言われるかも知れません。できます、しかし、それ は人間の感知能力の範囲内の解釈です。神の存在と働きの一部は理知でも説明できますが、生ける神の業を知ることは人間には許されていません。神との日々の 関わり(生き方)の中で、神の関与を信じ受け入れて生活することが信仰であり、証しです。詩編37編はそのような信仰が前提となっています。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、
  万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
  (ローマ 8: 28)



               

 
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