死は誰にでも訪れるもの。
私たちは死によって命が終わると考えていません。それはイエス・キリストの十字架の死と復活によって約束された「永遠の命」を信じているからです。「わた
したちの本国は天にあり」(フィリピ3:20)とあるように死んだあと帰るところがあると言うのは何と幸いな事でしょう。「命ある限り恵みと慈しみはいつ
もわたしを追う、主の家に帰り生涯そこにとどまろう」(詩編23:6)。
永遠の命をどのように手に入れるのか。
「イエスは言われた。わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」(ヨハ
ネ11:25−26)。あなたは天国への希望がありますか?あなたの心には永遠の命が宿っていますか?もし、今晩死ぬとしたらあなたは天国に行けますか?
パウロは主イエスを信じた恵みの中で「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか、死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリント(一)15:55)と言った。
主イエスを信じる者の死は終わりではなく天国への通過点です。
聖書には天国への帰還についての約束はありますが、その具体性について詳しくは記されていません。何故でしょう。神が書き忘れたのでしょうか?違います。
それは知る必要がないからです。それよりも聖書はやがて来る死を見つめ、今を生きる大切さを教えるからです。それはイエス・キリストを信じて救われ、永遠
の命を受け取ること、これが神の御心なのです。神は独り子を賜るほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」
ヨハネ3:16
主イエスは過去も今も未来も生きて、わたしがあなたの人生を共に歩み、あなたが人生に疲れ倒れそうになった時は、わたしはあなたを背負う、母の胎を出た時
から、白髪になっても、私たちがどのような状況の中にあっても、あなたを忘れる事なく、見捨てる事なく、あなたを背負う。「疲れた者、重荷を負う者は、だ
れでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と仰せられる。イエス様を受け入れるときに、私たちの魂は命を得て本当に生きた者
になる。