私
たちは神に導かれ十字架のもとに来ました。そして今、十字架の上の主イエスを見ています。しかし、それで終わりではありません。神は私たちを更に十字架の
上にまで導こうとされているのです。それは、わたし自身が十字架にかかると言うことです。パウロは「わたしは、キリストと共に十字架に付けられていま
す。」(ガラテヤ2:19)と告白しました。私が十字架につくと言うことは、主イエスと一体になると言うことなのです。
主イエスが十字架に付けられたとき、私も一緒に十字架に付けられた。主イエスが十字架で死んだとき、古い私も一緒に死んだ。主イエスが墓に葬られたとき、
私も一緒に墓に葬られ、主イエスが復活したとき、私も主イエスと一緒に復活した。これが私たちの信仰です。死ななければ復活はありません。
私たちが信仰生活を送っていて、本気で主イエスに従っていこうとするとき、真剣であればあるほど必ず壁にぶち当たります。その壁は何か?それは自分という
壁です。これだけ神に愛され、恵みを受けていても、それでも神に逆らおうとする私がいて、神に背を向けようとする私がいます。私たちが神に従っていくよう
になるためには、そして、本当に安定した信仰生活を求めようとするならば、神に逆らおうする自分を十字架の上につけてしまうのです。
これが過去の生き方と決別すること「古い自分にさようなら」なのです。キリストと共に死にキリストと共に復活をするという経験をするのです。キリストと共に死んだ者は、キリストと共に生きるのです。この御言葉をしっかりと私のものにしていかなければなりません。
アドベント(待降節)は待ち望むときです。私たちが待ち望むお方はどういうお方なのか、しっかりと心にとめアドベントを過ごしたい。「彼が刺し貫かれたの
は/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは
羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪のすべて/主は彼に負わせられた」(5‐6)。主に御栄光あれ。