ヨセフとマリアは婚約をし、幸せな結婚生活を夢見ていた。そんなときにヨセフは受け入れがたい事実を聞かされた。それは婚約者のマリアが身ごもった。ヨセ
フにはまったく身に覚えがありません。答えはただ一つ、マリアが自分を裏切った。ヨセフは苦しみ、悩みました。なぜ、このようなことになってしまったの
か・・・。
聖書には「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1:19)とある。当時の掟では、
このような不貞を働いた者は「石をもって打ち殺せ」(申命記22:20)とされていた。ヨセフは正しい人でしたので、マリアの犯した罪をうやむやにする事
はできません。かといって彼女を訴える事もできませんでした。ヨセフは考えに考えて「ひそかに縁を切ろう」と決断をした。
縁をきることで問題は解決したように見えるが、しかし、ヨセフの負った心の傷は解決された訳ではありません。ヨセフはその後も、このことを思い巡らせてい
ると、天使が現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(1:20)。
思い巡らす中でマリアの胎の子は聖霊によって宿ったという御言葉によってヨセフは本当の問題解決と納得が与えられました。ヨセフが神様の御言葉を聞く事が
できた要因はどこにあったのでしょうか。それは、縁を切ろうと決心しましたが、その後も考えながら思い巡らしていたので、そのときに、主の御言葉が語られ
たのです。
思い巡らすとは、出来事と出来事をつなぎ合わせるという意味があります。ヨセフの人生に神が介入したとき、今まで起きた一つ一つの出来事(点)がつな
がって線にったのです。点だけを見ていったら、たまたま偶然に起こっただけ、しかし出来事がつながったという事は、そこに意味が見いだせたのです。そし
て、その線は救い主誕生と言う喜びにつながっていきました。私たちも人生で「これしかない」「だめだ」「無理だ」と決めつけてしまうが、神様が介入するス
ペースを空けておく必要がある。