聖書でいう悔い改めとは、神のもとに立ち帰る事です。悔い改めよ、と言われると、裁かれているような、断罪されているかのような感じを受けますが、神が
帰って来なさいという言われる招きの言葉です。皆さんは神に立ち帰っていますか?神とあなたの間にある道はどんな道ですか?ある人は曲がりくねった道、あ
る人は辛い坂道、ある人は険しい道。まっすぐで平らな道と言える人は少ないのではないでしょうか。もし、その道に山があったり、谷があったり、恐れがあっ
たら行く事ができません。イザヤは言った。「主のために、荒れ野に道を備えよ」「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道
は広い谷となれ」(イザヤ40:3−4)と。
私の中にある山とは何でしょうか、それは神に対する傲慢さです。あなたの救いなど必要ない。神などいらない。神はいなくても自分だけでやっていける。神
からご覧になるとそれは傲慢な姿です。谷とは何でしょうか。それは自虐的な思い、自分で自分を苦しめ、自らを責め立て、私なんか愛されるはずがない、私な
んか生きていてもしょうがない。諦め、絶望、まさにそれは谷でしょう。恐れとは何でしょう。どうして神に対して恐れを持つのか。それは「罪」がある事を
知っているからです。罪を持ったまま神の元に行く事ができますか?よく、バプテスマの話をすると、もっと清くなってから、もっと正しい人間になってからと
いう人が多い、それは罪の恐れを持っているからです。
この悔い改めを妨げる山や谷や恐れは礼拝を通して神の前に立ち、傲慢なる山が削られ、打ち砕かれ、神のなぐさめによって自虐的な思いが埋め立てられて、
神の愛によって恐れが閉め出され、そして道を備えて行くのです。神は罪人が悔い改めて帰ってくる事を喜んでくださるお方。私たちは裁かれるのではないか、
罰せられるのではないかと、びくびくして恐れていたが違った。神は良く帰って来た。いなくなった一匹の羊が見つかった。無くなった一枚の銀貨が見つかっ
た。死んでいたと思っていた放蕩息子が帰って来た。喜ぶのは当然ではないか。その罪人は誰ですか、私であり、神に造られ、愛されているあなたです。悔い改
めはすべての喜びなのです。