礼拝メッセージ                                                                                   2019年05月12日 


恵みの喜び
エフェソの信徒への手紙 2章1−10節
山岸 明牧師
              
   神 は人をつくりエデンの園に置かれた。そこで人は神と共に平安に過ごしていた。神は園の中央に命の木と善悪の知識の木を置かれた。そしてアダムに言った。 「この善悪の知識の木からとって食べてはならない、食べたら必ず死んでしまうから。」すると誘惑するものが来て言った。「決して死ぬことはない。それを食 べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる。」(創世記3)、彼らは神の言葉に従わず、偽りの声に従い、その実を食べてしまった。その時から人は 神に従わない者となった。これが原罪、罪の本質です。そして神から離れた結果、神のようになれるという錯覚を持った。それが自己中心です。罪がもたらした 最大の実です。私たちは生まれながら「罪と死」の中に捕らわれて生きていた。主イエスは「罪と死」から私たち救うためにこの世に来られた。

 では、どうしたら救われるのか?人生のテーマとなり宗教ができ、哲学が生まれた。そしてこうやったら救われる、ああやったら救われると救いの道を考えだ し自らの努力と行いで救いを勝ち取ろうとした。聖書ははっきりと言います。「事実、あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。」(8)。救いは 行いではなく、主イエスを信じる信仰によってのみ救われると。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)。とあるように、主イエスの救いに与るには低いところにい なければならない。それはどこか?罪あるところ、私は罪人です、という低いところです。私は正しいという高いところにいたら主イエスに会えないのです。 「それは、だれも誇ることがないためなのです。」

 そして「あなたがたは、以前は過ちと罪のために死んでいたのです」(1)。「以前は肉の欲望のままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた。」 (3)。聖書は私たちに「以前は」と言えるところに立たなければならないと教えます。それは「罪と死」の中に捕らわれていたのは昔のこと、今は恵みにより 信仰によって救われたと言える自分を生きることを神は願うのです。


               

 
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