ア
ルファイの子ヤコブに関しては名前だけで、彼の言動は何も記されていない。この世の価値観で見ると可哀そうと感じてしまう。私たちが神の奉仕をするとき、
そこに自分の名前が残るとか、働きが評価されるとか、そこに自分の価値を置くと、褒めてくれない、声をかけてくれない、だれも私の奉仕を分かってくれな
い、そこに何とも言えない寂しさを感じたり、空しさを感じたりする。アルファイの子ヤコブから教えられることは、その働きが残るとか残らないではなく、神
に覚えられているかが大事なことです。私たちもヤコブのような奉仕者でありたいと願う。
ゼベダイの子ヤコブは兄弟ヨハネと共に「雷の子」と言われ、自分の思い通りにならないと怒ってしまう人でした。主イエスは何故、このような厄介な人を弟子
に選ばれたのか?他のメンバーを見ても、疑いと裏切り、弱さと足りなさ、どうしようもないメンバーたちです。しかし主は「力は弱さの中でこそ十分に発揮さ
れるのだ」(コリント二12:9)と仰せられたように、彼らの弱さ、足りなさを通して神の栄光を現わされたのです。
主イエスと出会う前のヤコブは人を力と怒りによって支配する生き方をしていた。だが、そこには平安も満たしもなかった。そんな彼が主イエスと出会って正し
い生き方を手に入れた。それは今までの生き方とは正反対の仕えるという生き方です。ヤコブは主イエスの十字架を通して「雷の子」から「神に子」に変えられ
た。
私たちが仕えていく者になれるとするならば、主イエスの十字架の愛と赦しを経験する事です。そのとき私たちに仕えると言う力が与えられるのです。それを
持って私たちは隣人を愛し仕えていくのです。もし、この十字架から目を離したら、テクニックで仕えようとするしかない、それは仕える“ふり”をする事です
から、苦しくなり、辛くなって、やがて限界がきてしまいます。私たちが十字架の愛を経験して仕えていくときに、愛されたい、認められたい、受け入れられた
い、そのような思いから解放され・その旅は終わるのです。