主日礼拝メッセージ                                                                                          2019年09月01日 

イエスの12弟子(8)タダイ
ユダの手紙1章3−4節
山岸 明牧師
        
      

   タダイは「主よ、わたしたちにはご自分を現わそうとなされるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」(ヨハネ14:22)と言った。主イエス は答えた。わたしはすでに現わした。あなたがたが互いに愛し合うならば、それが分かる。愛さない者には神は見えない。

 それが最も具体的に現れたのがイエス・キリストの十字架です。主イエスの十字架は神話でも作り話でもなく歴史の事実、出来事なのです。神の愛が具体的な 出来事として現れたのです。主イエスの十字架を深くみたとき、愛は素敵だな、立派だな・・では終わらず、愛は痛みであり、苦しみであることが分かる。愛は 知識ではなく学びでもなく、愛されて、赦されて、永遠の命が与えられたという出来事の中に生きる、それが信仰の世界です。

 ユダは手紙の中で「信仰のために戦うこと」を勧めた。もっとも大変な戦いは何でしょうか?それは自己中心との戦いです。この世は自分の考えを正当化して生きようとする世界です。そうしなければ生きづらいです。

 教会でメッセージを聞いたり、御言葉の前に立つときに、自分の知識、考え、努力、計画さえも否定されているかのように感じてしまうことがある。しかし、 聖書があなたを否定するのは、あなたを殺すためではなく、実は生かすためなのです。聖書は私たちを肯定するために否定するのです。

 この世は、あなたは素晴らしいと言って肯定し、なるべく敵を作らないようにして同化していくが、最後には否定していくのです。ただ聖書の否定は敗北で終 わりません。なぜなら「復活」があるからです。その復活に与るとき、私たちの人生の勝利がある。その勝利こそが肯定された自分として生きられるのです。信 仰の戦いは今も続いています。「それから、イエスは皆に言われた。わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いな さい。」(ルカ9:23)

         

 
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