タダイは「主よ、わたしたちにはご自分を現わそうとなされるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」(ヨハネ14:22)と言った。主イエス
は答えた。わたしはすでに現わした。あなたがたが互いに愛し合うならば、それが分かる。愛さない者には神は見えない。
それが最も具体的に現れたのがイエス・キリストの十字架です。主イエスの十字架は神話でも作り話でもなく歴史の事実、出来事なのです。神の愛が具体的な
出来事として現れたのです。主イエスの十字架を深くみたとき、愛は素敵だな、立派だな・・では終わらず、愛は痛みであり、苦しみであることが分かる。愛は
知識ではなく学びでもなく、愛されて、赦されて、永遠の命が与えられたという出来事の中に生きる、それが信仰の世界です。
ユダは手紙の中で「信仰のために戦うこと」を勧めた。もっとも大変な戦いは何でしょうか?それは自己中心との戦いです。この世は自分の考えを正当化して生きようとする世界です。そうしなければ生きづらいです。
教会でメッセージを聞いたり、御言葉の前に立つときに、自分の知識、考え、努力、計画さえも否定されているかのように感じてしまうことがある。しかし、
聖書があなたを否定するのは、あなたを殺すためではなく、実は生かすためなのです。聖書は私たちを肯定するために否定するのです。
この世は、あなたは素晴らしいと言って肯定し、なるべく敵を作らないようにして同化していくが、最後には否定していくのです。ただ聖書の否定は敗北で終
わりません。なぜなら「復活」があるからです。その復活に与るとき、私たちの人生の勝利がある。その勝利こそが肯定された自分として生きられるのです。信
仰の戦いは今も続いています。「それから、イエスは皆に言われた。わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いな
さい。」(ルカ9:23)