ヨハネは自分の事を「愛されている弟子」と言っている。ヨハネは自分が神に愛されている事が嬉しくてたまらない。神の愛を知り、体験し、そして今もヨハネ
は感動している。ヨハネは主イエスと出会う前まで本当の愛を知らなかった。ですから愛される事も、愛する事も出来ませんでした。彼は主イエスに出会って
「愛の人」に変えられた。ヨハネの書いた手紙には、その愛が溢れています。「神は愛です。互いに愛し合いましょう。」彼はその言葉を何度も繰り返します。
この手紙はヨハネがかなり高齢になったときに書かれたものです。2世、3世が誕生し主イエスを知らない人たちが多くなってきた。主イエスは存在したか、本
当に救い主なのか?復活は本当か?主イエスは神の子か?そこに異端と呼ばれる教えが広まった。それは主イエスの復活はなかった。あれは作り話である。
ヨハネは手紙の冒頭で言いました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目でみたもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の
言について。この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」主イ
エスの十字架と復活は夢でも作り話でもない、私はその声を直接聞き、見て、この手で触れたのだ。
「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。」その事が分かってくると感動が起きてくる。この神の愛に感動が無くなれば、その信仰は活気を失
い、命のない、ただ習慣化した信仰になっていく。また、信仰に感動がなくなれば教会生活も煩わしくなってくる。私たちは何故、日曜日に礼拝をするのか。そ
れは主イエスが復活されたからです。そこに喜びや、慰めや、期待が無くなれば、主の日の礼拝はただのお勤めになってしまう。そこには何の感動も起きない。
故に証もない。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれていま
す。それは、あなたがたが信仰の実として魂の救いを受けているからです。」(ペトロ一1:8−9)。今一度、主イエスの十字架と復活を、聞いて、見て、触
れよう。