主日礼拝メッセージ                                                                           2020年3月29日 

こんな祈りがあったのか

マルコによる福音書14章32−42節(新約 p92)

「こう言われた。アッバ父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。」

                               マルコによる福音書14章36節


山岸 明牧師


「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎさるようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおで きになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことがおこなわれますように。」(35−39)

主イエスは祈りの中でこの杯はどうしても飲まなければならないのですか?と祈った。聖書の語る「杯」とは「祝福と怒り」を表しますが、ここで言っている杯 は罪に対する神の怒りの杯です。つまり十字架の道を通らなければならないのですか?十字架刑は生きたままはりつけにされるわけですから、痛みの極みです。 しかし、主イエスの本当の悲しみ、苦しみ、痛みは肉体の事よりも霊的な断裂、神との関係が断ち切られてしまうという悲しみ、痛み、そして本当の意味での 「死」です。

主イエスはこれほどの苦痛を通ってまで、なぜ十字架の道を選択されたか。それは、これしか人間が救われる道がなかったからです。私たちクリスチャンがキリ スト以外に救いはないというのはここなのです。そこを妥協して、救いの道がいろいろあっても「良し」としてしまうなら、私たちはすべてを失うとともに、主 イエスに対して最大の侮辱だと思うべきであります。

主イエスは誰かに強要されたり、強制されて十字架にかかったのではありません。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨て る。」(ヨハネ10:18)。主イエスは、わたしを十字架につけたのがローマ兵でもなく、律法学者でもなく、父なる神でもない。わたしが父なる神の御心を 知り、その思いを受け入れ、自らの意思で十字架についたのです。

主イエスは祈りの中で、人間を救う道は他にないのですか?神の御心は、我が子よ、この道しかないのだ。故に主イエスは仰せられた。「わたしは道であり、真理であり、命なのです」(ヨハネ14:5−6)。この十字架の道を通られた主イエスだけが救いの道、命への道なのです。


 
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