主イエスは自らかかる十字架を背負わされゴルゴダ(処刑場)の丘へ
と歩かされた。その道をヴィア・ドロローサ(苦難の道)といいます。官邸からゴルゴダの丘まで約1.4km、主イエスは前の晩に逮捕されて以来、眠るまも
なく裁判にかけられ、鞭で打たれ、激しく衰弱し、もはや十字架を背負って歩くことなど出来ない、途中何度も倒れ、もはや立ち上がることができない。
「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」
(21)とある。シモンは過越しの祭りを祝うため、エルサレムに巡礼にやってきた。たまたまそこを通りかかっただけで、兵士たちに「お前が背負ってやれ」
と、無理矢理に主イエスの十字架を背負わされた。
シモンは主イエスと共にヴィア・ドロローサ(苦難の道)を歩きながら、なぜ、自分がこのような目にあったのか、一体、このイエスという男は何者なのか、
なぜ、十字架にかけられるのか、主イエスと共に歩む道において、十字架を背負う当事者として、また自分の問題として考えざるを得なくされたのではないか。
ある説にはシモンはこの後、クリスチャンになったと言われています。
あなたにとって主イエスの十字架とは何でしょうか?あなたとどんな関係がありますか?
多くの者が「十字架から降りてくるがいい。それを見たら、信じてやろう」(32)と十字架の主イエスをののしった。ああ、胸が痛む。私たちも同じように
思っていなかったでしょうか。イエスよおまえが本当に神の子であり・私の救い主というなら証拠を見せてみろ、そうしたら信じてやってもいい。そんな態度で
見ていました。
主イエスが十字架から降りてこなかったのは、私たちの罪の救いの為、十字架でその命をお捨てになって、私たちに本当の愛(赦し)を示してくださった。
「良き羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。主イエスの十字架はだれのためでもありません。十字架はわたしのため、あなたのためです。