ファリサイ派のシモンが主イエスを食事に招いた。そこに一人の罪深い女がやってきて、「後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始
め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻をして香油をぬった。」(38)それを見たシモンは「この人が預言者なら、自分に触れている女がだれで、どん
な人か分かるはずだ。罪深い女なのに。」(39)と思った。
そこで主イエスはシモンに「あなたに言いたいことがあると言って、一つの譬えを話された。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナ
リオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸し
を愛するだろうか。『シモンは帳消しにしてもらった額の多い方だと思います』と答えた。イエスは、『そのとおりだ』と言われた。」(41−43)
イエスはシモンに、「あなたはわたしが来たのに足を洗う水もくれなかった。わたしに挨拶もしなかった。あなたは頭にオリーブ油も塗ってくれなかった」と言った。これは律法に照らして、正しいか、間違っているかではなく、愛があるかどうかが問われたのです。
シモンは主イエスを愛せなかった。一方、罪深き女は主イエスを愛した。この違いは何か。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(47)
わたしたちが主イエスを愛せるかどうかは、主イエスに赦されたという経験がどれだけあるかという事です。この罪深い女は多く赦された。だから多く愛し
た。主イエスの十字架の愛を知り、本当に赦されたことを知った者は、愛しなさいと言われなくても、主イエスを愛さずにはいられなくなるのです。シモンは自
分が正しい人間だと思っていたので、赦される必要はないと思っていた。あなたはどうでしょうか?赦される必要がないくらいに正しい人間でしょうか。