ヘロデ王はヤコブを捕らえ殺し、次にペトロを捕らえ殺そうとした。ヘロデに
捕らえられたペトロは厳重に監視された牢に入れられ、処刑の日を待っていた。ペトロが捕られられたと聞き「教会では、彼のために熱心な祈りが神に捧げられ
ていた」(5)。教会に出来たことは「祈り」だけでした。
初めに、信仰は縛られず、諦めないこと。ペトロは縛られていたが、祈りは縛られなかった。信仰は縛る事はできない。私たちも生活の中で縛りを感じたり、束
縛を感じたりする事がある。しかし私たちに与えられている信仰は何ものにも縛られ事はない。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができま
しょうか。艱難か、苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8:35)
また、信仰は諦めないこと。私たちは自分で勝手に答えを出して、もう駄目だ、もう無理だ、神に祈っても無駄だと諦めてしまうことがある。信仰とはどんな状
態になっても諦めないで、望みを持って生きて行く事です。アブラハムは「希望するすべもなかったとき、なおも望みを抱いて信じた」(ローマ4:18)。
次に、絶対絶命の中から救われたペトロは教会に戻った。逃げることも出来たのに、何故、教会に戻って行ったのか?それは、神の恵み、救われた喜びを皆なに
伝えたい、分かち合いたいと思った。しかし、不思議なことにペトロが救われたと聞くと、教会ではそんな馬鹿なことがあるかと言った。ヤコブが殺されて、ペ
トロが助かるはずはないと思っていたのか、それとも祈りがこんなにも早く聞かれるわけがないと思ったのか。ともすると私たちの祈りもそうかもしれない。し
かし、神は私たちの不完全な祈りも聞かれ、私たちの期待以上の御業を現してくださる。ここに祈りの神秘があり、素晴らしさがある。
最後に、ペトロは救われて、ヤコブはなぜ助からなかったのか、教会では同じように祈ったはずです。答えは分かりません。ただ、神はなぜヤコブを守ってくれ
なかったのか、神がいるならなぜ、これを突き詰めていきますと神への批判になっていきます。最後は神への信頼と神の視点から見ていくのです。