私たちが誘惑を受けるのは、決して弱い者だからではありません。また誘惑を受ける事は罪でもありません。主イエスも誘惑を受けられました。しかし、罪は犯されませんでした。誘惑はそれに屈して初めて罪となります。「人はそれぞれ自分自身の欲望に引かれ、唆され、誘惑に陥るのです。そして、欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:14)
「さて、イエスは誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。」(1)何
と主イエスを荒れ野に導いたのは聖霊であった。聖書に出てくる荒れ野とはどういうところか?そこは試練を受け、神と出会い、悔い改めを経験するところ、聖
霊は私たちをも荒れ野に導きます。そこで誘惑に会いながら、神への従順を学び、荒れ野の体験を通して霊的成長をしていくのです。
主イエスは荒れ野で悪魔から3つの誘惑を受けられた。
最初の誘惑は40日間の断食の後、極限の空腹の中で「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(3)それは奇跡を起こし、自らを満足させよ。主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。」(4)と旧約聖書の申命記8:3を引用された。
次の誘惑は「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立た
せて、言った。神の子なら、飛び降りたらどうだ・・・天使たちは手であなたを支える。」悪魔は逆に詩編91を引用。神を信頼する者は守られる、試してみ
よ。主イエスは「あなたの神である主を試してはならない」と申命記6:16を引用。私たちは日頃から多くの聖句を蓄えておく必要がある、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい」(エフェソ6:11)
最後の誘惑は「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」(8) 十字架は必要ない、わたしにひれ伏せば王の座を与えよう。主イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ、主に仕えよ。」申命記6:13を引用。そこで悪魔は去った。