物事には学んだものを捨てなければ新しいものが見えて来ないこと
もある。また壊さなければ見えない本質もある。私たちの信仰生活にも、そのプロセスを踏まなければ見えてこないものがある。これまで得てきた知識や経験を
一度リセットし、ゼロの視点で改めて見直すと、新しい風景が広がります。
主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(7)と仰せられた。主イエスはファリサイ人や律法学者と度々対立し、彼らの教えに対し批判的な態度をとった。彼らの目には主イエスは律法を壊そうとする者に思えた。
主イエスは、わたしは壊そうとしているのではない、完成するために来た。神がモーセを通して与えられた律法の数は613あるが、主イエスは律法を次のようにまとめられた。「『心
を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:38−40)
律法の完成は行いによるのではなく、信仰によって愛に生きること。具体的には「神を愛し、隣人を愛すること。」ではモーセの律法の必要性は何だったのか?パウロは言った。「こうして律法は、わたしたちをキリストへと導く養育係となったのです。」(ガラテヤ3;24)人には達成できない律法の厳しさを知る事によって、私たちには救い主が必要であることを知らせるために、モーセの律法が必要だった。しかし、主イエスが十字架で救を完成してくださったので、もはや養育係は必要なくなりました。「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」(ガラテヤ3:25)
さらにパウロは言った。わたしは「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3:6−8)。律法を命として大切にしてきたパウロでしたがそれを捨て信仰に生きたとき、今まで大切にしてきた知識や経験が塵のように思えたのです。