「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(35)主イエスは来られる人々をただ
待つのではなく、自ら出て行き町や村を回った。そこには出会いがあり、新しい発見があり、色々な事が見えてくる。喜んで笑顔で暮らしている人たち、一方、
病で苦しみ、気力を失っている人々、疲れた人々、失望している人々。
主イエスはそのような群衆の有様を見て憐れまれた。それはまるで「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている者であった。」(36)。これ
が主イエスのご覧になる目です。主イエスのまなざしは永遠に変わることなく、今も魂の飢え渇きをしている人たちがたくさんいることを私たちに教えておられ
る。そこで、主イエスは仰せられた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(2)
皆さん、「ここにわたしがいます。わたしを遣わしてください。」(イザヤ6:8)とイザヤが言ったように、私たちも応えようではありませんか。主は祝福し必ず用いてくださいます。
次に主イエスは弟子たちを遣わすにあたり3つのことを教えられた。
1 弟子を二人ずつ組みにされ遣わされた。そこで彼らは主の働きをするには協力して行うことを教えられた。
2 「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家に留まりなさい。」(10)そこで彼らは謙虚と、へりくだる事を覚えた。世話になるという事は身を低くして頭を下げることです。主イエスは弟子たちが与える前に、何かを受ける者とされました。
3 旅には杖一本のほかには何も持たないように命じられた。聖書で杖は神の約束の象徴である。何も持たない不安の中で何を信じていくのか。そこから主の栄光を見る事を学ぶためです。