ヨハネは、「自分の方へイエスが来られるのを見て言った。見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1:32)こ
の方こそ救い主である。ヨハネは神の裁きが近いことを知り、すべての者に悔い改めを迫った。それはヘロデ王に対しても同じであった。それがヘロデ王の怒り
に触れ、ヨハネ捕らわれ投獄された。しかし、ヨハネにとって、牢に入れられようが、鞭打たれようが、神から与えられた働きに燃えた。だが、ヨハネは獄中で
主イエスのなさっている事を聞いて疑問を抱いた。そこで弟子たちを送り主イエスに尋ねた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たな
ければなりませんか。」
主イエスは
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない
人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(4−6)今までヨハネが語ってきた「来られるべき方」とは「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(10)裁き主・審判者であるキリストです。
ところが主イエスの働きの報告を聞くと、ガリラヤの田舎で病人を癒し、悪霊を追い出し、友な
き人の友となり、嫌われ者たちと一緒に食事をする、社会から追いやられている人々を相手にしている。そこには想像していた神の子としてのお姿は見られな
かった。今、ヨハネの信仰が揺れている、来るべき方は本当にあなたですか?ヨハネは人々に仕える主イエスにつまずいたのです。
ではヨハネが伝えた審判者、裁きは無効にされたのでしょうか。そうではありません。ヨハネが
語った通り、神の怒り、裁きはくださった。どこに起こったのか?それがイエスキリストの十字架です。神のみ心を知らずに、神の背き、神をないがしろにして
いく、その人間の罪を裁くために、神の御子であるイエス様が私たちの身代わりとなって十字架にかかって神の裁きを受けてくださった。命を捨ててくださっ
た。本来は裁かれるべき、私たちの代わりに、キリストなるイエス様が十字架で神の裁きを受けて下さったのです。この方につまずかない人は幸いです。私たち
の信仰が揺れても、それでも主イエスを信じて歩もう。