主イエスは「父よ、時が来ました」と十字架の時が来たことを悟った。これから進む先に待っているのは、辱めの時、屈辱の時でもある。しかし、主イエスは
栄光の時が来たと仰せられた。それは神の御心である全ての人々の罪の救いが完成する時であるから。十字架は運が悪かったのではなく神から与えられたもので
あった。
「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」栄光とは、これから受ける十字架の苦難だけでは
なく、それに続く復活、召天、神の右の座におつきになること。故に苦難と辱めは栄光の入り口である。パウロは言った。「現在の苦しみは、将来わたしたちに
現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(ローマ8:18)私たちの人生には苦しい事もある、しかし苦しみだけを見ていて
はいけない、栄光とは「価値」という意味もある。今の苦しみがやがて価値あるものに変わる時が来る。
次に、残される弟子たちのために祈られた。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってください。」(15)。「真
理によって彼らを聖なる者としてください。あなたのみ言葉は真理です。」(17)御言葉で彼らを清め、強め、この世に流されないように、支配されないよう
に守ってくださいと執り成しの祈りをして下さった。実生活の中で神の守りを実感していますか?
最後に、神の守りの中で過ごす人生をさらに有益なものにするためには優先順位をはっきりさせること。皆さんは人生の中で何を第一としていますか?「何より
もまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」神を第一としていく中で神に守られ導かれている事を体験します。
主イエスは十字架に付かれる前に「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように、この杯をわたしから取りのけてください。」と切なる祈りを
された。そして最後に「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14;35−36)と祈られたが切なる祈りは聞かれな
かった。それだけ見ると何と薄情な神かと思う、しかし、それがイースター(復活)へと続くのです。もし十字架がなかったら、私たちの救いはありませんでし
た。救いがなければ私たちが神の守りの中で生かされている事も分らず、漠然とした人生の中で生きる目的も知らぬまま歩んでいた事でしょう。