主日礼拝メッセージ                                                                                            2021年04月11日 

 派遣される弟子たち

山岸 明牧師

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


 
聖書:マタイによる福音書28章19−20節 (新約p60) 


 「さ て、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(16- 17)主イエスの前にひれ伏というのは礼拝行為です。つまり、礼拝しながら疑う者もいた。私たちも、あの弟子たちのように礼拝をしつつ、疑いを持つ弱い者 ではないでしょうか。
 しかし、そんな疑いを持つ弟子たちに主イエスは「近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(18)と言って弟子たちに使命 を与えられました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに、父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがた に命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19−20a)
弟子とは師に似た者になる事です。「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」(ルカ6:40)私 たちはどんなに努力してもキリストにはなれません。しかし、キリストに似た者になれるのです。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたは本当にわたし の弟子である。」(ヨハネ8:31)御言葉にとどまるとは、主イエスのように考え、行動するという事です。

  また弟子として生きることは、自己中心に生きたいと思う自分自身との戦いでもあります。痛みも覚えます。嫌なこともあります。時には傷つく事もあります。でも、その戦いを避けていたら、いつまでも、幼子のままで生きるようになってしまう。
 パウロは言った。「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた。」 (13:11)思いも、考えも、行いも幼子だったが、幼子の思いを捨てた。そう決断した。そこに成長があり、弟子として相応しい者になっていく。教会もま た主により「呼び集められた者たち」です。私たちも同じようにキリストの弟子となり遣わされていくのです。


 
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