主日礼拝メッセージ
2021年04月25日
エフェソの教会には奴隷の身分の者やその主人たちもいた。パウロは奴隷の身分の人々にキリストに仕えるように真心を込めて主人に従いなさいと言った。同
じように主人たちにもキリストに仕えるように奴隷たちを扱いなさいと言った。なぜなら主イエスが仕えるために来られたからである。「人の子は仕えられるた
めではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)。
私たちが「仕える者」になるにはどうしたら良いのか?
それは僕の心を持ち、自分に固執しないこと。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にし
て、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ
2:6−8)主イエスは神と等しいものである事に固執しなかった。もしそこに固執していたら人間と同じ者にはなる事も、へりくだる事も、十字架におつきに
なる事もありませんでした。私たちも自分に固執していたら仕えることはできない。
仕える者は、忍耐をもって、最善を尽くします。
真心をもってキリストに仕えるように仕えなさいとある。学びの実践です。聖書を見ると主イエスもいろいろな人々に仕えていきました。当時、だれも触れるこ
とをしなかった重い皮膚病の人に仕えていきました。人々の足を洗い仕えることを教えられました。子どもたちの面倒を見、弟子たちの朝食の用意もしました。
主イエスは何をするにも心を込めて行った。僕の心を持って打ち込むならば、どんなにつまらない事でも価値ある働きとなることを教えられた。
故に、私たちの働きが人の目に留まらなくても、感謝される事がなくても、どうか気落ちしないでください。『うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷
として、心から神の御心を行いなさい。そして喜んで仕えなさい。善いことを行えば、だれでも主から報いを受けます。』(5節)
とあるように、忍耐しながらも善いことをし続けよう。その生き方を貫いていくとき、神が必ず報いてくださる。この約束を私たちの「仕える」生き方の原動力
にしたい。
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