主日礼拝メッセージ                                                                                            2021年06月13日 

『互いの重荷と自分の重荷』

山岸 明牧師

ガラテアの信徒への手紙 6章1−5節(新約 p350)
「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」


 パウロは私たちが負う重荷について二種類あると言います。一つは「互いの重 荷」(2)です。誰もが負っている一般的な困難や課題、弱さなど、共通の重荷です。もう一つの重荷は「自分の重荷」です。私が負わなければならない重荷で あって、誰かに代わることができない、代わってはならない重荷です。

 パウロはこの「互いの重荷」について、それを一人で抱えないで、互いに重荷を担いなさいと言われた。聖書には「互いに」と言う言葉が多く出てきます。 「互いに愛し、祈り、赦し、励まし、忠告し、挨拶をし、仕え、教え、受け入れ、尊敬し、互いに重荷を担う。これが教会の姿であり、神の家族なのです。

 信仰生活は一人では継続していく事も、また一人で成長していく事もできません。信仰の良き友が必要です。互いに重荷を担う、この愛の行為が「キリストの 律法を全うすることになるのです。」(2)私たちは人の愛に助けられて重荷を下ろしても良いのです。助けられて良いのです。「お互い」とあるように、まさ に「お互い様」なのですから、喜んで助けられ、喜んで助ける事が必要です。

 一方、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(5)。この重荷は神から与えられた私への重荷であり、課題であり責任です。パウロに課せられた重荷は 何だったでしょうか?それは、全世界で福音を伝えることでした。パウロはこの重荷を神が私に与えられた課題であり、使命であり、責任っであると確信してい た。神から与えられた重荷は、誰かに変わってもらえるようなものではない、代わってはならない、まさに私の十字架と言っても良い。苦しくとも下ろす事はで きないのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と、主イエスが仰された「重荷」とパウロの 言った重荷は同じ原語が使われています。故に主イエスも休ませてあげようと言ったが、重荷を下ろしなさいとは言われなかった。なぜなら、その重荷は主イエ スも負っておられた重荷だから。主があなたに与えた課題は各人が負わなければならない任務、神から任されている務めを意味する「荷」です。「わたしについ て来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)その重荷を下ろすときは、その任務から下りる時です。