『奉仕』という言葉を見て、どんな感情を抱きますか?
やらなくては!と使命感に燃やされることもあれば、やらなくては・・・と疲れを覚えることもあるかもしれません。奉仕に限らず、日常の仕事や家事など、どうして私ばかりが、と不平を述べたくなった時は誰しも経験があるのではないでしょうか。
マルタとマリアの物語は、しばしば奉仕に対する姿勢のあり方について考えさせられる箇所です。マルタは主イエスを家に迎え入れるために、一生懸命奉仕をしました。それに対し、妹のマリアは主の足もとに座り、ただ主の言葉に耳を傾ける姿が対照的に描かれています。
主はマリアの姿勢を喜ばれましたが、マルタのことをお叱りになったわけではありません。「マルタ、マルタ」と2度名前を呼ぶ表現はモーセ(出3:4)
や、パウロ(使9:4)などにも出てくる、召命の呼びかけです。この呼びかけに、マルタに対する親愛が込められているように思います。
ここで私たちが大切にしなくてはならないことは、どちらの姿勢でいるべきかを悩むことではなく、順番を間違えない、ということではないでしょうか。「主を喜んで」奉仕するのと、奉仕をして「主を喜ぼう」とするのとでは違うのだと聖書は語っています。
不平不満を言っている時の自分が好きな人はいないと思います。だからこそ、どうやったら自分の嫌な部分を変えられるのだろうと思い悩むものです。ここで
私たちに与えられている一番大切なことは「主を喜ぶ」という姿勢です。自分で躍起になって変えようと努力するのではなく、心を主に向けて御言葉を聴き、信
頼してイエス様によって変えられるのを待つことが求められています。
そこから出発しなければ、思い煩い、悩みや不安を受け入れられずに、乾いたまま生きていくことになってしまいます。逆にそこから出発するならば、たとえ
砂漠のような場所を歩いているときでも、オアシスである主のもとで水を飲み、憩わせていただくことができるのです。主との関係の中で生きられることを喜
ぶ、だから仕える。そのために出来ることは主のそばで座り、ただ主の言葉を静かに聴くことだけです。